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 身近な人がHIV陽性だとわかり、自分はどうしたらいいのだろうと考え込んでしまう人もいるでしょうし、何か特別なことをしなければならないような気がして焦ってしまう人もいるかもしれません。HIV陽性者の体調や、本人との関係などによっても異なりますが、もしも、HIV陽性者が今まで通りの生活をしているのであれば、あなたも今まで通りでかまいません。
 日常生活で感染が起きるような場面はほとんどありません。特別なサポートが必要な場合を除いては、今まで通りのパートナー、家族、友だち、職場の仲間として、いっしょに時を過ごしたり、いっしょに生活をしたりすることを、多くのHIV陽性者が何よりも望んでいるのではないでしょうか。
 2003年5月に出会い、今年で10年になる「夫夫」です。
 初めて彼の家に遊びに行った時に、彼から「僕、HIV陽性なんだ」と告知されました。一瞬何を言っているのか、わかりませんでした。と言うのもHIVは知っていましたが、友人・知人の中には陽性者がいなかったので、恥ずかしながら陽性者のイメージは、まだ発見された80年代のころのままだったので、実際に目の前にいる彼からは全然想像できませんでした。
 彼の人柄の良さもそうですし、彼の前では素のままでいられる自分がいて、初めて会った時から、こんなに相性ピッタリなのはないんじゃないかなと思っていましたので、付き合うのにはHIVは何の障害にもなりませんでした。これからも宜しくお願いします、ということで付き合いが始まりました。
 彼は一人暮らしで私は実家暮らしだったので、もっぱら私が週末に彼の家に行くという、週末婚が続きました。実家を早く出たい私は、再三、一緒に住もうと話して、2003年12月に彼の家に転がり込みました。それから同居が始まりました。後日談として彼から、同居には慎重だったけどよしがどんどん話を進めていくから、まあいいっかー、とその当時は思っていたとのこと。まさしく、押しかけ女房でした。
 同居する時に話し合ったのは、何かあった時に自分一人になる場所を、あえて作らない、ということです。お互いに今まで何十年も生きてきましたから、すれ違いが生じるのは仕方ないことです。それでケンカになった時は、どうしてそういう感情になったのか、これからどうしていけばいいのか、などをとことん話し合いました。そこで話し合わずにお互いに逃げてしまうと、仲直りするタイミングを失い何かわだかまりが残ってしまうと思います。
 私は昔は人と衝突しそうな時は、その場から逃げて衝突を避け、自分の殻に閉じこもるのが常でした。ですから最初の時はそういうことをするのは大変苦手で、自分の感情をうまく伝えられず、さらに彼をイライラさせることは何度かありました。でも、その時でも彼はずっと側にいて、「僕の前では感情を出してもいいんだよ。嫌いになったから言ってるんじゃなく、これからも一緒にいたいからうやむやにしたくないだけ。感情をむき出しにしても、それでもよしのことは愛しているよ」と言ってくれました。
  私たち「夫夫」が今までやってこれたのは、この話し合いをしっかりできているからかもしれません。これからの10年もいつまでも新鮮で、愛情や笑いにあふれた生活を送っていきたいと思います。
 HIVは、感染している人の精液、膣分泌液、血液、母乳に含まれています。これらの体液に含まれるHIVが、粘膜や傷口から体の中にある程度の量が入ることによりはじめて感染の可能性が生じます。そのため日常生活での感染はほとんど考えられません。鍋物をいっしょにつついたり、風呂にいっしょに入ったり、蚊による媒介で感染したりはしません。
 尿や唾液などにもHIVは含まれますが、非常に微量なため感染することはありません。日常生活では、出血の可能性を考慮して歯ブラシとカミソリは共有しないようにしましょう。
 HIV陽性者が日常的なケガをしたとき、消毒や止血のお手伝いをするのであれば、直接血液に触れないようにしましょう。ゴム手袋やそれに代わるものを使うと良いでしょう。血液のついたガーゼ等は、ビニール袋に入れて捨てましょう。
 血液がついた衣類の洗濯は、他の人の物と一緒に、普通に洗濯してかまいません。衣類に多量の血液等がついている場合は、念のために流水で洗い流してから洗濯するとよいでしょう。
 夢を追いかけて、大学入学からのまさに青春の10年間を過ごした東京。息子がその思い出の詰った東京を離れる決心を固めたのは、3・11大震災の1 ヶ月程前のことでした。そこに地震と原発事故が起き、親としては一刻も早くふるさとへ帰ってくる事を願っていましたが、東京を去るに当たって、息子は友人やお世話になった人たちに、うしろ髪を引かれる思いをより一層強くしていたようです。
 そんな想いを振り切るように帰郷して9カ月余り、息子は実家で久しぶりに家族と過ごし、東京への想いを少しずつ整理していきました。一旦は正社員としてデザインの仕事に就いたものの地方の閉鎖性に馴染めず、退社。アルバイトで日々をつなぎつつ、今も就活は続いています。孤独感をふり払いながら努力する息子、そっと見守るしかない親のもどかしさ。時にはピリピリした空気も……。
 HIV陽性については、既に親には知らせてくれていましたが、2年前帰省した折、本人から弟にも告知し、以来家族で共有しています。現状を丁寧に説明してくれたようで、告知後の混乱はなく、淡々と過すことができています。病いを得てから、息子は以前にも増して人生を深く考察するようになり、毎日を大切に味わうように暮らしています。そして地方都市での一人暮らしを続けながら、通信制大学で、再び学生として学んでいます。
 そんな揺れる親子にとって、支援団体は心強い基地の様な存在です。今は少し距離を置いていますが、こういう存在があるということは、大きな救いです。これからも多くの悩める人たちのサポートに尽力下さる事を願っています。
 僕は約7年前に、当時住んでいた実家の近くにある保健所の職員の方より、HIVと梅毒が陽性であるとの告知を受けました。その頃の僕は、一種のSEX依存症のような状態に陥り、毎週のようにハッテン場通いをしていました。
 とある頃から風邪をひき、咳やだるさが長く続き、もしかしたらという気持ちで保健所の無料検査を受け、陽性であることが発覚したわけです。不思議なもので、その時の自分は動揺もせず「やっぱりそうか」と、納得感を覚えたものです。保健所で病院や支援団体を紹介してもらい、病院にて正式な検査を受け、担当保健師さんに付き添ってもらいながら、役所にて手帳などの手続きを何とか無事に済ませました。
 当然のことながら自分一人の胸にしまっておける問題ではなく、家族にも打ち明けなければなりませんでした。我が家は、僕が10歳の頃に両親が離婚して母親が家を出て行ってから、10年以上ずっと父と弟の3人での暮らしが続いておりました。病名が病名なだけに必要最低限の人だけに打ち明けようと考え、同居する父と弟の2人だけに伝えました。
 父親と息子というのは、もともとそんなに多くの会話をするというものではないだろうと思います。普通の家なら、まずは母親に報告や相談するのが一般的なのではないでしょうか。一方、我が家では、母親がいないので、その分父親と口を利くことの量は多いほうだと思います。決して特別仲が良いわけでも悪いわけでもない。他愛のない会話ぐらいなら、家の中で顔を合わせればよくします。しかし、自分にとって都合が悪いとか、話したくない事は一切話さないし、うちの父はあまり細かく詮索するような性格の人間でもありません。ですから、自分がゲイであるとか、週末になると上京してハッテン場通いをしているなんて話さないですし、話せません。ゲイであることが後ろめたい事だとは感じませんが、父親世代の人間にはおそらく一種の特殊な生物のように見えるでしょうし、決して聞いて気分は良くないだろうと容易に想像できたので、あえて話さなかったというのが本意です。
 とはいえ、HIVに感染したという話まで黙っているわけにはいかない。そこで、検査の結果が出されたその日の夜、父に保健所から渡された検査結果の用紙を黙って見せました。父はずっと用紙を見たきりで何も話しません。沈黙に耐えられず、自分の方から、「これから病院に行ったり、役所に行ったり、自分一人で出来ることなんでお手数はかけません」と一方的にまくし立て、またHIVに関しては、保健所でもらった冊子を見せながら、「これで僕の人生が終わったとか、まもなく逝ってしまうとか、そんなことは無いらしいから。昔と違って薬を飲み続けていれば、完治はしないけど普通に近い生活を送ることができるみたいだから、そんなに過剰に心配しないでね」と言いました。父は表情をあまり変えることもなく、話を聞き終えるとただ「わかった」とだけ言いました。
 それからしばらくの月日が経ったある日、信じられない話を耳にすることとなりました。実家の近所の幼なじみの方と会った際に、「あなたHIVになったんだって?」と。「誰がそんなことを…」と恐る恐る尋ねてみると、目の前が真っ白になりました。父が当時働いていた建設業の社長は、父とは幼なじみの関係で、奥さんが元看護師ということもあったそうですが、父が社長夫妻に、事もあろうに自分の息子がHIVに感染してしまった、自分はどうしたら良いのだろうか?と相談したそうです。
 僕がHIV陽性の事実を伝えた時、父は平静を装っていたものの、相当ショッキングだったらしく、自分ではどうしてよいのかわからず、自身の中では抱えきれず、思わず相談してしまったというのが、後で聞いた真意です。しかし、父は事の重大さを理解できていませんでした。自分が話してしまったことがどれだけの波及効果を生じさせ、事実が人の耳を伝え渡るということ。また、その後に回りまわって本人のところへ戻ってくるということを。
 僕は父に対して強い憎しみを生まれて初めて覚えました。むろん、殺してやりたいなどとまでは思わなかったものの。
 数ヵ月後、僕は実家を出て都内で独り暮らしを始めました。あれから約7年の月日が経ち、父親とは離れて暮らすようになり、まだわだかまりは完全には消え去ってはいないものの、育ててくれた恩やありがたさを素直に感じられるようになりました。今では以前のように、他愛のない話なども普通にできる関係にまでなりました。
 パートナーとは、その人柄や趣味嗜好が合うこともあり、トントン拍子で一緒に暮らすことになり、約6年になります。付き合うに当たり、パートナーは、HIV陽性であること、うつ病であることを打ち明けてくれました。HIVの事について、私自身は元々医学的な知識があったこともあり、あまり気になりませんでした。
 むしろ、一緒に暮らし始めて大変だったのは、うつ病でした。私が仕事から帰ると、1~2時間、まるでカウンセラーになったかのように話を聴きました。睡眠薬を飲み過ぎて深夜に転倒し、跳び起きて助けるようなこともありました。
 パートナーのうつ病の症状は重く、仕事を続けられなくなり、転職を重ね、その度に症状が悪くなる悪循環に陥っていました。また、大量の睡眠薬や抗うつ薬を服用しなければ眠れず、ベタナミンという覚醒効果のある薬を服用しなければ活動できないようになり、徐々にその量も増えていきました。薬の服用方法があまりに出鱈目だったため、何度も注意し、減らすよう促しましたが、「薬を飲まなければ眠れない。活動できない。」と言うだけで改善には至りませんでした。
 HIVの支援団体の方に相談するようになり、パートナーは処方薬依存である事実を受け止め、その改善のために、第一歩を踏み出すことになりました。パートナーとして近くで支えてあげることも必要ですが、全てを担うことはできません。今回、第三者に相談することで、冷静に自己分析をして、改善に向かうことができたものと思います。対応してくださった方に心から感謝しています。
 HIV陽性者は、何か特別な生活をしているわけではありません。ですので、一般的に健康に良いと言われていることを、HIV陽性者本人といっしょに取り入れてみると良いでしょう。バランスの とれた食事、適度な運動、充分な休息、上手なストレスへの対処などです。
 また、風邪の予防(手洗いやうがいなど)、食中毒の予防(衛生状態のチェックや、生ものなど の注意)なども心がけましょう。
 HIV陽性者は、陽性とわかったばかりの時期や、長くHIVと付き合う中で、混乱したり気分が沈んだりすることもあります。誰かと話をしたり、情報を整理することで不安が軽減されることもありますし、運動や音楽などその人にあった方法でストレスに対処することも大事です。
 また、HIVという新たな事実を抱えたという重苦しさを、身近な人がいっしょに抱え込んでしまうことも少なくありません。HIV陽性者の心のケアだけでなく、ご自身のケアも大切です。
 人間関係が狭まらないように、事情を知っている共通の友人と話をする人もいますし、パートナーや家族が参加できる会に参加する人もいます。匿名で相談ができる電話や対面での相談サービスを利用するのも良いでしょう。
 自分たちだけでは対処できないメンタル面の課題に直面することもあります。うつなどの症状が現れることは少なくありません。また、ドラッグ(薬物)やアルコール、セックスなどへの依存がある場合、本人に依存症という自覚があるとは限らないため、本人が支援とつながりにくく、パートナーや家族などの身近な関係者は問題を抱えたまま孤立しがちです。自分たちだけで抱え込まずに、専門的な支援につながることがとても大事です。